やいとの思い出

ベンヤミン『ベルリンの幼年時代』を読んでて、なんとなく自分も、自分の幼年時代というのを紡ぎ直してみたいような気持ちになった。

でもその語りを試みるとき、難点が二つあることに気づいた。一つは場所の問題だ。僕が18歳になるまで過ごした故郷は、ベンヤミンのベルリンみたいな都市ではない、その対極にあるといっていいほどの田舎だ。目の前に海が迫り、背後には山が控える。僕の住んでいた町には電車が通っていなかったし、今でも通っていない。電車に乗るためには、まず車を三十分弱走らせて隣町に行かなければならない。コンビニに行くにも同じくらいの時間を要する。といって、大自然の中野生児のごとく奔放に育ったのかというとそうでもない。たしかに山を駆け回ったり家の目の前の海(海水浴場ではなく漁場である)に飛び込んだりなんかはあったが、それ以上に、同時代を都会で過ごした子どもたちと同じようにゲームボーイとかで遊んだりした。語るに値するほど文化的な経験も、野生的な経験も、僕にはないんじゃないだろうかという不安にとりつかれてしまう。

それ以上に深刻なのが、子ども時代を語るということそれ自体の難しさだ。いまや、僕はありのままの幼年時代を語ることはできない。それは、子どもの頃に物事に対して抱いた感情を再現することができないということでもあるし、そもそも事実関係そのものも、今となっては正しく思い出せず、そこに欠落や虚偽が入り込んでしまうだろう、ということでもある。

そうした困難を認識してなお、幼年時代を語りたいと思うのは、それが魅力的だからだ。僕は上で自分の幼年時代を、語るに値しないものだと貶した。でも、それは一般論としてだ。僕にとっては、常に輝きを放つ宝石のように、芳しい花のように、幼年時代はたびたび迫ってくる。僕がそれらの思い出と向き合うとき、そこにたくさんの嘘が入り込んでいるとしても、いや、虚構が入り込んでいるからこそ、愛おしく思えてしまう。そして、この幼年時代がいま・ここにはないにも関わらず、それが「あった」のだということが、僕の現実を惑わせる。あの輝かしい思い出の中では、幼い僕が遊んでいる。でもそれは、この去りし日を体験した僕ではない。体験した僕はいま・ここにいて、この僕ではない、誰か別の僕が、この輝かしい過去を享受している。過去の中に遊ぶ僕ではない、いま・ここにある僕は、その輝きから隔てられて現実を生きている。だけど(だから?)、この現実のほうが嘘なんじゃないかと思ってしまう。この/あの僕が、いま・ここで自炊のために買い物をしたり、明日提出しなければならない書類を書いていたりすることが、まるで信じられなくなってしまう。その呪いを解くために、思い出の中に遊ぶ僕も、結局は現実の僕が作り出したのだということを再認するために、僕は幼年時代を紡ぎ直してみようと思う。

そして、子どもの頃と今を隔てるものとして何が一番大きいかを考えてみる。一般的にはどうなのか知らないけれど、僕の場合たぶんそれは言葉だ。4歳だとか5歳だとかで親に言われた言葉で、まったく意味がわからなかったにも関わらず、なぜかその言葉の音だけは覚えていて、後になって初めて言葉の意味を知ったとき、あの言葉はこういうことだったんだ、と急にその場面、そのコンテクストが鮮明に浮き上がって記憶として残るようになる。でも、考えてみるとその言葉の意味がわからない時点では、その出来事というのもピースのかけたパズルのようなものであったはずで、当時の自分にとっては理解できなかったんじゃないかというような気がする。ただ、その言葉が現実の中に組み込まれ、そしてその出来事が記憶という形で書き換えられたときから、その言葉を知らなかった時点の状態を再構成することはほぼ不可能となってしまった。

たとえば、父と「どっちの料理ショー」という番組を見ていたとき、「ショー」の意味が分からず父に尋ねたことがあった。父は「それはにせものってことだよ」と答えた。確かに僕はその時は、父が「にせもの」と言ったんだと、そう覚えている。でも、後になって思い返してみるとあれは「見世物」と言っていたのだ、というのは容易に推測できる。きっとまだ「見世物」という言葉を知らなかった僕が、自分が知っている言葉で音の近いものを選んだ結果、そういう理解になったのだろう。それにしても、いったいあの時自分は「にせもの」という理解のもとに、あの番組に対してどんな認識を組み立てていたのか。それはもうわからない(まあ、「どっちの料理が偽物か」という真贋対決なのだとすると、意味が通らないことはないので、そう理解してたんじゃないかと思うけれど)。

もうひとつ、これは母親を怒らせたときの話。「お前は猿烏賊やな」と罵られたことがある。これはもちろん、本当なら「猿以下」であったはずで、今になって思い返してみるととんでもない侮辱だなという感じだ。でも今さらそれについてどうこういったところで仕方がない。本題に戻ろう。こういう勘違いを起こしたのは、僕が「以下」という比較の表現をまだ知らなかったためではあるが、母親が僕をバカにしていることはなんとなく理解できていたんだと思う。ただ、その勘違いによって生まれた言葉はもはや単にムカつく罵倒のレベルではなく、呪いとか魔術とか、そういうものの一種だった。あの言葉によって、僕は猿と烏賊のキメラに変身させられ、僕が僕自身の前に得体の知れないものとして立ち現れてきたのだ。

叱るということでいうと、祖母は僕や弟を叱るとき、きまって「やいとすえるぞ」と言ってきた。この「やいと」がなんなのか、もちろん正確にはわからなかったが、それでもなんとなくこのお仕置きが熱さを伴うものであることは予感していたような気がする。後になって、この「やいと」がお灸のことであることを知った。結局今の今まで一度も「やいと」を据えられたことはないが、「やいと」という語感が僕にその熱さを教えてくれていたのだろうか。一度、たしか小学校低学年の頃だったが、祖母の部屋で「やいと」と書かれた箱を見つけたことがあった。それまでさんざん「やいとを据える」と言いながら、それは言葉の上だけで、実際に仕置などなかったから、「やいとなんて存在しないんじゃないか」とおもいはじめていた頃だった。僕はその箱を、開けたいような、開けたくないような気持ちだった。その「やいと」を現実に見てしまう、そうすることで、「やいとを据える」という言葉でただ嗜めるだけだという、祖母と僕ら子どものあいだの暗黙の了解が破られてしまうのではないかと恐れたのだ。今、この箱を開けたら……「見ぃたぁなぁ……」とばかりに昔話のなかの山姥そのものな形相の祖母が立っているような、そんな気がして。

 

――いまや、誤解や無知にもとづく言葉の原始的魔力は失われてしまったのだろうか?現在の僕は、つねに検索機械を持ち歩いている。そしてこうやってパソコンで文章を書く。こうやって子ども時代を回顧して綴ってみたあとでも、遠くから語りかけてくる過去の呪術から完全に抜け出せたのかはわからない。過去を虚構として紡ぎ直して、現実の下に支配すればしようとするほど、その呪縛は強くなるような、そしてその呪縛に快感を覚えている僕がいるような、そんな気がするのだ。

放埒の美学という言い訳

やってしまった……いろいろと金が入用なのに、後輩と飲みにいって散財してしまった。一軒目で解散しておけばまだよかった。なんというか、かっこつけて「もう一杯くらいなら奢るよ」と言って二軒目に行ったのがまずかった。もう一杯の一杯が、たった一杯で済むはずがなく、僕らはいっぱい飲むために居座ることになってしまった……。

しかし、飲むなら飲むでぱーっと飲んで欲望を発散させきってしまったほうがいいんじゃなかろうか、ほら、どこぞの地下の班長もそんなこと言ってたし……

学問的に見ても、マルセル・モースが云々言ってたポトラッチがどうこうってのも、ようはそういう話じゃないんですかね。酒を飲む人間は、原始的な儀礼の中にあるのです。うん、その中では相手から与えられたもの以上の返礼をしないと、恐ろしいことになってしまうのです。とか何とか言ってみたり。

 

 

ええ、わかっておりますとも。そんな詭弁、結局飲酒欲をコントロールできない人間に金を使わせるためだけのものだってことは。お酒について語られるすべての言葉は、最終的にいっときの酩酊に吸い込まれ意味をなさなくなってしまうのです。でも、それでいいじゃないですか。だって、今楽しいんだもの!(ダメ人間の論理)

けものフレンズ最終回について、思うこと

最後まで貫かれた「優しい世界」観

3月28日、2017年冬アニメの中で最も異色と謳われ、かつ熱狂的なファンを多く生み出した「けものフレンズ」が最終回を迎えた。放送開始当初は、ぎこちないCGモデルの動きや稚拙な声優の演技、そして茶番めいた「狩りごっこ」から始まるストーリーによって多くの視聴者から敬遠されたものの、回を重ねるごとに、主人公かばんと少女化した動物、通称フレンズとの温かい掛け合いや、その背後に漂うポストアポカリプティックな雰囲気が話題となり、気づけば覇権アニメの一角とすら言える地位にまで上り詰めていた。

この人気のふたつの理由のうち、前者を象徴するのが「優しい世界」というワードだろう。かばんとサーバル、そしてガイド役のラッキービーストの旅は、「手助け」を軸に成り立っている。かばんがヒトとしての知恵を活かし、フレンズたちの悩みごとを解決、かばんたちとフレンズは友達になり、かばんたちは次の地方へ……このサイクルに、諍いや暴力の入り込む余地はない。誰も傷つかない、優しい世界。しかし、11話に至ってこの優しい世界にはじめて影が差す。大型化した黒いセルリアンに捕らわれたサーバルを助けることに成功するも、今度は自らがセルリアンの餌食となってしまうかばん。このシナリオは多くの視聴者に動揺を与えた。次回予告の不穏さも相まって、この優しい世界の結節点となっていたかばんが失われてしまうかたちでの結末もありえるのではないだろうかとの憶測も出ていた。そうした不安の中放送された12話は、フレンズたちがかばんを救い出し、セルリアンを倒し、「ゆうえんち」でパーティを行うというもので、多くの視聴者を安堵させた。ニコニコ動画で無料公開されている第1話には12話放送後、この結末をもたらされたことに感謝するコメントで溢れていることからも、「優しい世界」の維持がこのアニメの視聴者にとってどれほど重要な問題であったかということがうかがえる。

 

ジャパリパークは優しい世界か?

こうした大団円の雰囲気に、水を差すのは気が引ける。ただ、個人的にはどうしても、このエンドは少しお気楽すぎるような気がしてならない。そのお気楽さをもっとも感じるのが、セルリアンとヒトとの関係についてのギンギツネと博士たちの会話だ。

ギンギツネ「かばんの話を聞くに、ヒトがセルリアン対策に積極的に動いていたみたい」

助手「なるほど、それでヒトの近くにセルリアンが」

博士「むしろセルリアンの近くにヒトが、ということですね」

キンシコウ「パークを守ろうとしたその気持ち、わかる気がします」

 

ヒトの近くにセルリアンが多かったという情報を提供したのは、7話での博士である。セルリアンは無機物にサンドスターが反応して生まれた存在であるという点を踏まえるならば、ヒトは道具を作り使うことで、まさにセルリアンを生み出す原因であるはずであり、フレンズにとってセルリアンに食べられることが記憶や言語、そして他のフレンズと築いてきた繋がりなど、アイデンティティの喪失を意味する以上、たとえヒトがセルリアンの駆逐に尽力しようとも、両者のあいだには常に亀裂までとはいかずとも、緊張状態が生じる可能性があるはずなのだ。その点を最終回において、「セルリアンと戦い、守ってくれたヒト」という優しい世界の論理で締めくくってしまったことには、少々不満が残る。それはなんとも、ヒトにとって都合の良すぎる展開だと思うのだ。

とはいえ、その点については話数的な制約もあっただろうし、どのような形になるかわからないが新作映像の制作も発表されている。あわよくば、これがけものフレンズ2期であり、そこでこの問題について突っ込んだ展開があればと望んでいる。それに、ストーリー全体としてはやはりうまくまとまっているし、最終回の展開もありきたりではありながら、というかそれゆえにだろうか、素直に感動できて、個人的にはすごく好きなアニメであったことは間違いないのだ。

今のところ、これ以外にもセルリアンの役割とか、ジャパリまんについてとか、ちょっとずつ思うところがあるので、それについてもまとまったらまた書いてみたいと思う。

ビールの詩情は存在しうるか

ポエジーと相性のいい酒というのがいくつか存在すると思う。

最たるものは多分ウイスキー。この琥珀の液体を一人啜っている男は絶対何か詩的なことを考えているに違いない。ワインもまた、風情がある。日本酒には日本酒で、和の赴きがあるし。

一方でビールには、そういうのが決定的に欠けていると思う。ビールってのは、もうとことん騒々しくて、それで泥臭い感じの飲み物なんだと思う。

 

ただ、村上春樹のタイトルは忘れたけど何かの短編に、3人でビールを10本だか20本だか飲み干したって描写があって、ビールが何かしら文学的な赴きを帯びることができるとしたら、ああいう方法でなんだろうなぁと思った。ビールをテクストに流し込んでいくとき、そこに「味わい」がないこと、ただただ破滅的な消費の過程だけが示されていること、それが逆説的にビールの詩情となるんじゃないか、みたいなくだらないことを考えてた。

ブルーノ・シュルツ

右も左も分からぬままにはてなブログを始めてみて、とりあえず読書のグループなるものに参加してみたけど、全然読書に関係ない記事がなんか流されてて申し訳ないなって感じだったし、ちょっと取り急ぎ、思い出話というかまあ昔読んだ本の感想でも書いて、読書カテゴリを拵えて、無差別に書いた記事すべてがグループの記事の欄に流れて行かないようにしようという所存。なんで思い出話かというと、まだまだこれから数週間本が読めなさそうなので。

 

ここ数年で読んだ本のうち、とにかく一番「濃かったなあ」と思ったのが、20世紀ポーランドの作家ブルーノ・シュルツの小説だった。僕はもう、シュルツにはまりきってしまって、なんと一ヶ月もしないうちにシュルツの書いた作品を全部読み切ってしまった。……まあ、それもそのはず、彼は寡作で、しかも中短編しか書かないものだから、全作品が文庫本一冊に収まりきってしまう。

 

しかしまあ、作品が少ない分そこに創作エネルギーが凝縮されているというか、とにかくすごい。たしかカフカの影響を受けているとか書かれてたけれど、なんというか文章の迫力がカフカと全然違うなという感じだった。蠍かなんかに変身した父親が、母親に捕まえられて最後はゼリー詰めみたいなふうにされる、という感じの、なんとも不条理極まるストーリーがあったけれど、そういうトンデモストーリーが綿密な筆致で細部まで描出されながら眼前に迫ってくる。

 

と、まあ、濃かったといいつつかなりうろ覚えで書いてるんですがね。

 

とにかく、シュルツ、嘘偽りをせず多読アピールできてしまう作家なのでおすすめっす。

『シュルツ全小説(平凡社ライブラリー)』

 

酩酊の詩学

お題「日本酒」

数あるアルコホルの中でも、日本酒、ワイン、ウイスキー……これらに並んで知識が要求される酒ってのもなかなかないような気がする。まあ僕は、よく知らないので行き当たりばったりでなんだかうまそうなのを飲むんだけど。

 

昔通ってた居酒屋では、常連さんたちが入れてた八海山をよくいただいてた。「若いのによく日本酒飲むねー」と言われてたけど、最近じゃ若者のあいだでも日本酒はかなり流行ってるから、まあそんなにって感じだった。

 

実は……恥ずかしながら若者の日本酒ブームの話を聞いたときは、「あれ?これでは僕の数少ないアイデンティティというか、飲みの場での特権性みたいなものが……」みたいなことを思ってしまってたのよね。

 

でも、文化は若い人たちのあいだに取り入れられることで刷新されてくしね。最近じゃ大学の日本酒サークルってのもよく聞くし、ここはひとつ、日本酒もっと流行って、適当な居酒屋に入っても豊富な日本酒が口にできるようになればいいなって思う。

 

あー、でもどちらかというと最終的にはビール派だし、個人的には地ビールももっと盛り上がって欲しいねー。

ブログをはじめてみる。とりあえず凝らずに、雑記的に。

これまでに、たぶん3回くらいブログ的な何かをはじめては、1週間から1ヶ月くらいで飽きた。たぶん、凝ろうとするからいけないのだって感じたので、雑にやってみようと思う。そんな怠け者の日記的な。